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ルイーザ・メイ・オルコットの名言

ルイーザ・メイ・オルコット(ルイザ、オールコットとの表記もあり、英: Louisa May Alcott [ˈɔːlkɒt, ˈɔːlkət]、1832年11月29日 - 1888年3月6日)は、アメリカの小説家。家庭小説・少女小説の作家として人気を誇り、高く評価され、『若草物語(Little Women)』(1868年)と第二部(1869年)、その続編(1871年、1886年)の著者として最もよく知られている 。大人向けの短編小説、扇情小説の作家でもある。 オルコットは、超絶主義者で教育者のエイモス・ブロンソン・オルコットとソーシャルワーカー(民生委員)のアビゲイル・メイ・オルコットの娘であり、現在のペンシルベニア州フィラデルフィアの一部であるジャーマンタウンに生まれた。一家は1844年にボストンへ移住し、そこで彼女の父は実験的な学校を設立した。 父は理想主義的な哲学の実践者・教育者であったが、家族に対して超然と接し、支配的であり、生活力がなく、経済的にも家庭を守っていたのは母だった。父の理想の追求は妻と娘たちの様々な犠牲の上に成り立っており、一家は父の挑戦と挫折に従い、また生活苦から転居を繰り返し(30年間で22回)、オルコットは経済的にも精神的にも不安定な境遇で育った。彼女は生涯、生活力皆無の父に代わって家族を支えるという強烈な決意と義務感を抱いており、若い頃から家計のために働きながら、執筆の仕事を試み続け、1860年代に作家として成功を収めるようになった。彼女はキャリアの早い段階で、A・M・バーナードなどのペンネームを使用し、その名でスリラー短編や、情熱と復讐に焦点を当てた大衆向けの扇情小説を書いていた。この事実は20世紀半ばまでほとんど知られていなかったが、現在では「素朴で真実味のある」小説や、彼女自身が「スリリングな小説」という意味で「スリラー小説」、「血と雷の物語」と呼んだ「ぞっとするような」物語を執筆するといった多彩なスタイルを持つ小説家だったことが分かっている。30冊以上の本、300篇を超える作品を残した。 1868年に発表された『若草物語』第一部は、南北戦争時代のアメリカ北部に暮らした4人姉妹、長女メグ、次女ジョー、三女べス、四女エイミーの1年間を描いた物語で、マサチューセッツ州コンコードにあるオルコットと家族の家、オーチャード・ハウスを舞台にし、彼女の三人の姉妹、アンナ・オルコット・プラット、エリザベス・スウォール・オルコットとアビゲイル・メイ・オルコット・ニアーリカーとの子ども時代の経験に基づいている。第二部では、仕事や恋愛、結婚生活に奮闘する、若くして死去するベスを除く姉妹のその後を描いた。この小説は当時好評で、今でも子供から大人まで人気があり、150年以上にわたり非常に愛され続けている。舞台、映画、テレビに何度も上演され、映像化されている。 作家として成功したオルコットは一家の稼ぎ頭として家族を支え、『若草物語』の印税で家の借金を返し、両親の面倒をみ、夫を亡くした姉アンナの家族を支え、妹メイのヨーロッパ絵画留学の費用を捻出し、メイ亡き後は残された姪を引き取って育てた。 オルコットは「一生を父親への強い愛憎のなかで過ごしたといってもいいほどに父の存在が大きかった」と言われ、伝記作家たちは、オルコットの進歩的な考えと独立心が、先進的な理想を持つ父ブロンソンによって育まれたと考え、彼女の珍しい成功は父の影響によると考えてきた。近年では、母アッバの困難で献身的な結婚生活と自由への夢、母娘の関係性が、オルコットの知的・感情的世界の形成に大きな影響を与えたと注目されている。一家は奴隷制廃止運動に関わり、母は女性の権利の活動家であり、娘たちに自活の大切さを教えた。オルコットは奴隷制廃止論者、フェミニストであり、一生独身で通した。彼女は生涯を通じて、禁酒運動や女性参政権などの改革運動に積極的に取り組んだ。女性の権利と教育改革は、彼女の小説の主要なテーマであった。アメリカ文学史に埋もれていたが、フェミニストとしてのオルコット研究が進み、近年では、彼女の小説は女性の自立を描いたものであるという評価もされるようになった。現在では、19世紀中葉の文学の収穫期アメリカン・ルネッサンスの一員として位置付けられており、主に女性文学研究の枠組みで研究が進められている。 彼女は、父の死の2日後、1888年3月6日にボストンで亡くなった。 (以下、邦訳のない作品タイトルはすべて仮訳である。定まった日本語タイトルのない作品は、原題に近い訳を用いた。)
良書とは期待をもって開き、得るところあって閉じる書籍である。

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