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北島三郎の名言

北島 三郎(きたじま さぶろう、1936年(昭和11年)10月4日 - )は、日本の演歌歌手、俳優、ミュージシャン、馬主。本名:大野 穣(おおの みのる)。 『函館の女』に始まる「女」シリーズ、『兄弟仁義』などの「任侠」シリーズなど、数多くのヒット曲があり、サブちゃんの愛称で知られる。日本を代表する演歌歌手の一人。 原 譲二(はら じょうじ)のペンネームで作詞・作曲活動を行っており、自身の楽曲の制作以外にも舞台のシナリオ・演出や、北島ファミリーはじめ他の演歌歌手への楽曲提供等、マルチな活動を精力的に行っている。 作曲家・船村徹門下出身で、門下生で作る「船村徹同門会」(会長・鳥羽一郎)では名誉相談役を務める。
井戸も最初は泥水、掘り続けりゃ清水が湧いてくる。

上ばかり見ていてはダメで、支えているのは大地に張った根っこ。
母は生前こう言っていました。「いい木にはいい花が咲き、いい実がなる。だが、いい木には肥料も必要だ。木のまわりの雑草を取り除いてやることも必要だ。私たちは親として、子供たちがいい木に育つように努力した。
どんなに声が出なくなっても、場末のキャバレーでギターひとつの演奏になっても、うたっているときがいちばん気持ちがいいんですよ。それが、歌手なんですよ
お茶には茶道、生け花には華道、書には書道というものがあります。日本人の心の歌、艶歌に「歌道」があったっていいのではないでしょうか
芝居もショーも生きもの。スタッフ全員の呼吸が合わなければ満足いただける劇場公演はできません。
私を支えてくれる、“縁の下の力持ち”、一騎当千のスタッフの心からの協力があってこそ、北島三郎の歌と舞台は完成するのです
ちょっと弱気になるときがあるとしても、「俺はこの道を歩むためにてきたんだろ?」と心に問いかければ、自然に足は明日に向いてしまうんです。
歌手に体力なんて必要ない、なんていう歌手がいたら、私はその人をプロの歌手とは認めません。歌い手は、腹の底から、心の底から“詩とメロディー”を謳い上げるのです。
あとは、子供たちが立派な花を咲かせ、実をつけてくれることを祈るだけだ」と
「うた」を楽しく聞きながら暮らす多くの人は、「うた」で素晴らしい景色を思い浮かべていたんじゃないかなあ。今は、「うた」が慰めとか励ましというけど、あのころは思い出を作ってくれていたんだよ
浮き沈みの節目、節目で、数えきれないほど多くの方々の「情け」、「恩」、「優しさ」を受け、そして「義理」の重さを感じてきました
人間、正しいことは誰でもいう。正しいことをいうやつよりも間違ったことを素直に認めて謝れるやつの方が勇気があると思う。
一ヶ月という長丁場のコマ劇場公演。座長がスタッフの尊敬を受けずに、どうして“ファミリー”を語れるでしょうか
貧乏ではありましたけれども、明るい笑顔だけはふんだんにあった新婚時代でした
私は自分の歌を唄うとき、“隠し味”を一ヶ所か二ヶ所、必ず入れておきます。私にしか出せない味を伏せてあるのです。
長年歌手として舞台に立っていますと、その日その日の舞台の雰囲気が手にとるように、わかるようになります。拍手の仕方、掛声の飛び方、お客様の体の揺れ方、それやこれやで、どれだけ熱心に聴いて下さっているかがわかるのです。
現在、私の前に道はありません。その道なき道を、私は一歩、一歩あゆむことによって、歌の道にまい進しようと決意しています
僕は、「生きていこう」「生きなきゃ」って思うより、「生かされてるんだから」というふうにとりたいですよね
おまえ、来ることの無い人を待ち続けた事があるか?演歌ってーのはそういう人達の祈りじゃないのかな?
ただ父は私にこう言いました。「東京へ行って困って帰ってきても、もうお前の田畑はないぞ。それだけは覚悟して行け」
最初の海外公演は昭和51年5月のロサンゼルス・サンフランシスコ公演でした。私は外国へ行っても、英語で歌ったりはしません。日本の舞台とまったく同じ、すべて“北島三郎流”
私が上京すると言った時、母は猛反対。すると父は「俺は長男として長い間したいこともできず、責任ばかり負わされてきた。穣には好きなことをさせてやりたい」と説得したそうです。

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